2012/09/04

街の行動原理

9月24日までパリで、現代美術界の巨匠ゲルハルト・リヒターの数多くの作品を鑑賞出来る。ロンドン、ベルリンを巡ったドイツ人画家リヒターの回顧展がパリのポンピドゥーセンターで開催中だ。夏から秋へと徐々に街の姿が変わるこの時期に、リヒターの展覧会に訪れることができるというのはなんとなく羨ましい。

「パノラマ」というタイトルのこの展覧会は80歳になったリヒターを祝った企画もので、特にパリでの展示で見逃せない作品は、ロンドンのテートモダン、ベルリンの新国立美術館では出品されなかったポンピドゥーのみの展示のS.with Childという作品。ポンピドゥーでリヒターが描く母と子の喜びに巡り会える。そしてこの喜びはパリの街に住む人々に繋がっている。

これまで自分が経験した展覧会の記憶は、街の記憶と繋がっていることが多い。忘れることが出来ないほど興奮した展覧会の記憶は、いつも街の記憶と一緒だった。というより、その展覧会のことを思い出すと、自然と街の断片が浮かんでくる。美術館近くの路地や公園、あるいは道ばたの樹木、カフェでリラックスしている人々など脈略のない対象がどっと溢れるように思い出す。自分がそこまで意識していなかった対象まで記憶があることに不思議だった。今振り返るとそれは、美術と街が有機的な関係だからなのかもしれない。その街に住む人々が受け継ぐ文化への想いが美術館、道、レストランなど街の至る所にまで行き渡っていると思った。だから、街が目指した共通の文化というものを自分は街のあちこちで感じていたのかもしれない。そういう意味でも美術館の展示場も街の一部だ。

ベルリンとローマでの展覧会の経験は強烈だった覚えがある。そこで出会った展覧会を思い出すと、今でも街の空気感さえ蘇ってくる。

初めてベルリンを訪れたときに向かったユダヤ博物館の「10+5=God The Power of Numbers and Signs」 という展覧会で、これまでの「展覧会」という概念が完全にひっくり返ったの記憶している。これまで展覧会というものは「広いスペースに見せ物を配置するもの」と なんとなく思っていたけど、ユダヤ博物館でのこの展示を経験した後は全く違うものになっていた。そしていつもこの展覧会の事を思い出すと、鉄道の時刻表やカフェのメニュー表、ドイツの新聞写真のレイアウトなどを思い出す。日本で出会う事の無かったディティールの丁寧さにすごみを感じた。

そして数年後に身震いをした展覧会の経験は、イタリアのローマだった。ボルゲーゼ美術館での「Caravaggio – Bacon」展。贅を極めた大理石の館の中にベルニーニの彫刻、それを囲むようににカラヴァッジョとフランシス・ベーコンの絵画が展示されていた。ゴージャスで濃密な空間の中で圧倒されたことを思い出す。

展覧会は街のセンスが瞬間的に切り取られているようで、その街に住む人々が何を尊重し、どういことに価値を見いだしてきたのか、そういうことが瞬間的に伝わることがある。ローマの街の態度は明確で、ゴージャス極まりない。